標高を地道に稼いでいくと、いつしか植生が変わっているのに気付いた。先程までのブナやカエデとは明らかに違い、幹が真っ直ぐ、空高く伸びた木ばかりである。シラビソやコメツガといった、針葉樹の森にいつしか変わっていたのだ…

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時折、樹々の間から赤茶けた頂きが見え隠れする。山頂よりも手前にある標高2,693mの側火山、宝永山だ。

この宝永山、太古の時代より度重なる噴火を繰り返してきた富士の噴火史の中で、現在までにおける歴史上最後の噴火である1707年(宝永4年)の時にできた山だ。富士の黒々とした山肌とは違い、表面は赤茶けた岩で覆われている。

多くの人が、その成り立ちを噴火の際の噴出物が堆積したことによってできたものだと思っているようだが、実は違う…

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現在の富士の山容ができたのは今からおよそ一万年前である。よれよりも以前、数万年前までは「古富士火山」という標高3,000m位の山体がそこにはあった。現在の富士山の下に覆い隠されているのだ。

さらに遡ること今からおよそ十数万年前、その「古富士火山」の下には、「小御岳火山」という標高2,300mほどの山体が存在していた。今の富士山の位置よりもう少し北側に位置し、その山頂の一部が今でも山梨県側の五合目登山口付近に露頭している。

そしてこの宝永山であるが、数万年前まであった「古富士火山」時代の山体の一部が宝永噴火の際、マグマの突き上げによって隆起し、その山体を形造ったものなのだ…

見えている山頂部だけでなく地下の浅い部分にも古い山体が隠れており、まるで太古の時代からタイムスリップでもして現れたかのような歴史的ロマンを感じる。

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樹々の背丈は段々と低くなり、また、その間隔も少しずつ隔たりが出てくる。先程までのシラビソやツガに混ざって、今度はカラマツが姿を見せはじめた。

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標高が上がれば上がるほど、その自然環境が厳しさを増し、植物たちは冬の過酷な寒さや風雪に耐えてゆかねばならない。荒れた火山岩でできた大地には水分や養分も少なく、多くの植物たちが根付けずその姿を消していく。

そんな悪条件の中、このカラマツは荒涼とした大地にまず根をおろし、たくましく果敢に生きてゆく…
パイオニア(開拓者、先駆者)植物と呼ばれる所以だ。カラマツが先陣を切って拓いた大地にはやがて豊かな森が拡がってゆく。

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更に高度を上げてゆくと、登山道の傍らに木片が建てられていた。よく見ると「村山修験者富士山修行場跡」と書かれている。

村山修験とは、富士山興法寺大日堂(村山浅間神社)に中世から伝わる本格派修験だそうだ。
1486年(文明18年)、聖護院道興(1430~1527)が訪れた前後から、村山(静岡県富士宮市村山)と関係があったらしい。村山修験は、明治維新政府による神仏分離令・修験禁止令によって、多くを途絶させられた。

img_2650この場所は、村山最後の法印(山伏のこと)が昭和の戦前期に峰入り(修験道独特の厳しい修行)し、標高2,150mのこの地で修行をおこなった行場跡であるという。

麓の村山という里より富士山中に入りこの地において修行を重ね、富士山頂を往復した後、須山(静岡県裾野市須山)へ降り、更に御殿場(静岡県御殿場市)各所で修行を重ね、三島・沼津・吉原を廻って村山に戻ったという。

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修行場を後にすることおよそ30分、ゆく手には人の背丈ほどのカラマツがまばらに点在し、やがて森林限界を越え遮るものがなくなる。

正面には、抜けるように真っ青な空を背にした雄大な富士の姿がそびえ立ち、その手前には月のクレーターを連想させる宝永火口が口を開け富士の息吹を感じるかのようだ。

ここを今回の富士の樹海を訪ねる旅の終着点とした。
おもむろにリュックからバーナーとパーコレーターを取り出し、コーヒーを沸かす。
後ろを振り返ると、今日歩いてきた広大な森の全容が見渡せた…

古より人々が富士に引き寄せられる訳は、その山容より何か神秘的な力が放たれているのを感じ取るからではないだろうか。そしてその麓の森からはあらゆる生命にパワーや癒しが与えられ、人間が生きるために必要とするエネルギーや本質的に求めている安らぎ、平穏といったものが享受でき、自身が本来持っている自然治癒力を目覚めさせる力が与えられるのかもしれない。

富士の懐へ抱かれに、是非、一度、訪れてみてはいかがでしょうか…

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