よく晴れた午後1時過ぎ、近くの砂浜を散歩していると、8羽のハマシギと出会いました。ハマシギは春と秋に飛来する旅鳥で、日本で越冬する個体もいると言われています。近年は減少傾向にあり、『環境省レッドリスト2019』で準絶滅危惧種にも指定されている鳥です。
彼らは主な繁殖地、北極圏から数千キロを旅して、ここまでやってきました。その道中は、常に命の危険と隣り合わせで、きっと過酷なものだったでしょう。そんな旅の厳しさをみじんも感じさせず、平気な顔して、わずか2、3メートルの距離にいるのです。私はそのことに不思議さを感じ、驚かずにはいられませんでした。
もともと警戒心が薄いのか、私が現れても逃げるようなことはありません。人の足跡や風によってできた直径約20㎝、深さ5㎝ほどのすり鉢状の穴ぼこに形のいいお腹をのせて、快晴の日差しを浴びています。まるでふかふかの座布団に座って、縁側で日向ぼっこを楽しんでいるようでした。時々、穴ぼこを巡るちょっとした椅子取り合戦のようなものも起こりました。どれも同じに見える無数の穴ぼこにも、彼らなりに「合う」「合わない」の判断があるのでしょう。
そんな様子を眺めていると、一人の若い男性がやってきました。目の前の風景にスマホをかざすと、波打ち際まで歩いていきました。連れはなく、たった一人きりです。しばらく佇んで海を見渡した後、その場に腰を下ろしました。
ただ穏やかな波が打ち寄せ、河口の浚渫工事を終えた作業船が、光り輝く沖合いへと遠ざかっていきます。
私は一人でほっとしたいとき、よくこの砂浜を訪れます。波打ち際で目を閉じ、波の音に耳を澄ましていると、やがて心地よさに包まれていきます。それは、まるで空っぽのグラスに波の音色が粒となって注ぎ込まれていくような感覚です。自分が立っている場所や数秒前に考えていたことすらも忘れ、ただ潮風に吹かれている―その瞬間、自分自身をがんじがらめにしていた見えない鎖が、ふっとほどけていくのです。
さまざまな物事 が押し寄せてくる日常から、少し離れること。それは自分を守るためにも、他者との適切な関係を築くためにも必要なことなのでしょう。
大袈裟に言えば、一人で過ごせる波打ち際は、私にとって一時避難場所のようなものです。繰り返す波のリズムが、居心地の良い空白(エアポケット)を作ってくれるのです。
一人佇む若者も、そんな感覚に満たされていたかもしれません。
それから、いつものように、砂浜の隣にある河口の橋まで来てみると、20羽以上のカルガモが干潟でくつろいでいました。
身近な鳥としておなじみのカルガモの中には、越冬のために大陸から渡ってくる個体もいると言われています。この時期、急に数が増えるのは、そんな個体も混じっているからでしょう。
カルガモ一家の引っ越しなどでほのぼのとした印象もある鳥ですが、群れの中では意外に小競り合いも起こります。自分のパーソナルスペースに他の仲間が侵入すると、すかさずくちばしで牽制するのです。橋の上から眺めていると、お互いほぼ等間隔の距離に並び、まるで見えない境界線が引かれているかのようでした。
それぞれの身体感覚を通して、居心地の良さ、さらに言えば、「安心できる場所」を求めて、一人の若者も、ハマシギやカルガモなどを含めた生きものたちも、そして私自身もまた、同じように日々暮らしているのかもしれません。人と生きものの距離が近い身近な自然だからこそ、そんなふうにも思えてきます。
目の前のハマシギから数千キロ先の北極圏を想像する―その瞬間、遠い自然が身近なものに思えてきます。そして、かけ離れた二つの点をつなぐ長い旅を経て、今ここに居る彼らの不思議さに、私は心を打たれたのでした。
身近な自然に出かけ、好奇心を持ってまわりを見つめてみると、自分を取り巻く関係性や遠くの自然まで浮かび上がってくる―。
そんな不思議に満ちた世界が、ありふれた身近な自然の中に広がっています。
自然の中に身を置き、生きものを見つめ、路上スナップを通して巷の世界をも見つめる。この二つの間を行き来しつつ、そこで見たり聞いたり、感じたり考えたことを写真と文章で発表していきたいと思っています。私にとって自然は、いつでも、この世界の不思議さに出会える場所です。