これまで、「養生とは何か?─命を正しく全うする日本の知恵をいまに生かす」、「森と季節の養生法 ─ 自然のリズムとつながりで続ける健康習慣」の2回にわたり、養生という言葉の背景にある考え方や、森や季節との関わり、さらには個人レベルで取り入れられる実践方法についてお伝えしてきました。
最終回となる今回は、こうした養生の知恵や実践が個人の枠を越えて「社会全体」、つまり企業や地域社会の中でどのように根付いているのかについて、より深く掘り下げたいと思います。
養生という知恵を社会的な規模で生かしていくことは、私たちの生活や働き方、そして社会の未来にどのような新しい可能性をもたらすのでしょうか。
ウェルビーイング経営と養生の関係性
近年、多くの企業が「ウェルビーイング経営」に前向きです。これは、単なる病気予防や体調管理にとどまらず、社員一人ひとりがより前向きに、いきいきと仕事や生活を楽しめるような職場づくりを目指す経営手法です。従業員の幸福感や心身の充実こそが、企業の成長や社会全体の活力につながる―そんな考えが根底に流れています。
この「ウェルビーイング経営」において、養生の知恵はとても大きな役割を果たします。たとえば、自然とふれあう時間を大切にしたり、季節の移ろいを感じる暮らし方を取り入れたりすることは、心と体の両面から健康を底上げする力があります。森の中で深呼吸をしたり、四季折々の食材を味わったり、季節に合わせて装いを変えてみたりすることで、気持ちが前向きになり、自己肯定感も高まります。

伊藤先生によると、「人は病気を治す、といったマイナスを補うところにお金を払うのは嫌なんですよ。でも、たとえば森を歩くといったウェルビーイングに関する活動によってモチベーションが高まる場合などは、当然プラスに物が転じるので進んで投資をします。」
つまり、「病気を治す」ためよりも「より良くなる」ためなら、積極的にお金や時間を投資する傾向があるというのです。これは養生の考え方と重なります。単に病気を防ぐだけでなく、より良い状態を目指す養生の発想は、企業経営においても効果的だと伊藤先生は考えています。この「より良い状態になること」を応援するのが養生の本質であり、ウェルビーイング経営と深く響き合うポイントなのです。
企業による養生の具体的な導入例
それでは、企業が実際にどのように養生を取り入れているのでしょうか。伊藤先生によれば、アプローチは大きく分けて、「従業員向けの健康支援」と「企業イメージのブランディング」に分かれます。
従業員向けの健康支援
まず従業員向けの取り組みとして、森の中で定期的にリフレッシュする機会を会社が用意する事例が増えているそうです。森には五感を刺激するさまざまな自然の要素があふれていて、日常の仕事や都市生活で疲弊した心身に新たな活力をもたらしてくれます。
特に人と接することが多い職業や、精神的負荷の高い職種の方々には、こうした森での体験がとても有効だと伊藤先生は言います。
ただし、全社員を森に送り出すのは現実的に難しい場合もあります。そこで健康管理アプリを活用し、ストレスがたまっている方や身体の変化を感じている方々を優先的に、集中ケアの一環として短期間森の中で過ごしてもらう取り組みも進んでいます。
わずか2〜3日間、自然の中で静かに過ごすだけでもワークエンゲージメントが高まり、仕事への熱意ややりがいが回復するという声も多いそうです。
企業ブランディング
もう一つは、企業のブランド価値向上への活用です。薬や健康食品といった分野だけでなく、日常生活に関わる商品やサービスにも養生の知恵を取り入れることで、新たな価値を創造する可能性が高まります。
健康や未病(みびょう)の分野で直接効能をうたうのは難しくても、「自分の毎日をほんの少し彩る」「季節感を楽しむ」など、日常にそっと寄り添うコンセプトが企業のイメージや商品に深みを加えます。
具体的な企業事例
具体例として、下着メーカー・ワコールと伊藤先生との取り組みが挙げられます。ワコールは医療や健康食品の企業ではありませんが、女性の美しさや自信を引き出すために養生の考え方を生かした商品や提案を展開しています。
たとえば、季節によって下着の色を変えることで、身につける方の気持ちやモチベーションの向上につながり、気分や感覚にも変化が訪れると言います。
また、せんねん灸というお灸の商品開発においても、養生の考え方を取り入れているそうです。腰痛や肩こりといった症状別のお灸に加え、「季節のためのお灸」を取り入れています。香りを通じて体や心に季節感を呼び起こし、自分をいたわるきっかけとする―まさに未病ケアや日々の自己調整としての養生の現代的な活用例です。
養生の知恵や実践は柔軟に形を変えつつ、企業や商品開発の現場でも新たな価値を生み出しており、今後はこういった養生を取り入れたブランディングが増えていくだろうと伊藤先生は予測しています。
養生が見直される時―ヨーロッパが再発見する日本の知恵
養生の社会的な広がりを考える際に、伊藤先生が注目するのが「社会的処方」という考え方。これは、ヨーロッパの医療現場で広まりつつある仕組みで、医師が患者さんに対し、薬だけではなく地域のコミュニティ活動や自然体験などを「処方」するというものです。
たとえば、「最近疲れがたまっているようですね。〇〇町にある森へ行ってみましょう。」といった形で、薬ではなく森林コンテンツや町を処方するのです。

伊藤先生はこの「社会的処方」という流れは、実は日本古来の養生の考え方に近いと指摘します。「ちょっと調子が悪いなら、あの森を歩いてくるといいよ」とか「この地域の人たちと食事を楽しむと元気になれるよ」とか、昔から親しまれてきた習慣は、まさに地域ぐるみ・社会ぐるみの“処方”だったのです。
現代では逆に、日本が忘れかけていた知恵をヨーロッパが再発見して取り入れつつあるという状況も生まれており、日本で育まれてきた養生という知恵を現代の新しい視点で再評価し、生かすことが期待されています。
養生が拓く「命を正しく全うする」社会の可能性
本シリーズでは、日本古来の養生という知恵を探求してきました。伊藤先生が繰り返し強調されたのは、養生の本質が「命を正しく全うすること」にあるという点です。
これは単に長生きするということではなく、自然と調和し、季節のリズムに寄り添い、人とのつながりを大切にしながら、自分らしい充実した人生を全うする生き方を意味します。この考え方は、個人の健康維持だけでなく、企業経営や地域社会の活性化にも深い示唆を与えています。

養生の実践が広がることで、社員一人ひとりが活力を持って働ける職場、世代を超えて支え合う地域コミュニティ、四季の変化を尊ぶ文化の継承など、さまざまな社会的価値が生まれています。養生は過去の遺産ではなく、日本が誇るべき健康文化であり、現代社会の課題に応える未来志向の知恵なのです。
「命を正しく全うする」ために大切なのは、病気になってから慌てて対処するのではなく、季節の変化とともに心身を整え、地域や社会とのつながりの中で自分自身を生かすこと。そうした日々の小さな実践が、個人の健康だけでなく、社会全体の持続可能な幸福へとつながっていくのです。
まずは第一歩、「知るところからはじめて」という伊藤先生の言葉を胸に、日本の誇るべき健康文化、「養生」を現代の暮らしに取り入れてみてはいかがでしょうか。
本記事でご紹介した養生の知識やプログラムについて詳しく知りたい方は、下記サイトをご覧ください。
■問い合わせ先
YOJYOnet株式会社
編集後記
本稿を掲載しているWebメディア「NATURES.」は、NPO法人Nature Serviceが運営しています。私たちは「自然に入ることを、もっと自然に。」をテーマに、自然の癒やしの力を通じて、人々の心の健康のきっかけづくりを行っています。
私たちの活動を通じて企業担当者と対話をする中で、近年、ウェルビーイング向上という課題が頻繁にあがります。特に企業の中核を担う社員が疲弊せず、持続的に才能を発揮するには何が必要か。
今回の伊藤先生のインタビューから、養生の知恵を取り入れたウェルビーイング施策が重要な経営戦略になり得ることが見えてきました。特に印象的だったのは、自然や地域社会とのつながりを通じて心身の調和を図るという養生の本質です。単に個人で取り組む健康法ではなく、森や季節の恵みを生かし、地域との関わりの中で実践することで、持続的な効果が生まれます。
この考え方を実践している例が、長野県信濃町の「癒しの森事業」 です。住民有志の発案から始まったこの取り組みは、森林セラピー®による保養型観光地づくりを通じて、地域活性化と訪れる個人や企業の健康増進を同時に実現しています。これは、まさに現代における養生の実践と言えそうです。
伊藤先生のお話は、養生という知恵が、現代の企業経営や地域活性化にも応用できることを教えてくれました。Nature Serviceでは、NPO法人としての活動を通じて、この視点をさらに深めていきたいと思います。自然と人、季節と暮らしの調和から生まれる健康のかたちを、これからも皆さんと一緒に探求していきます。

Nature Serviceのウェブメディア NATURES. 副編集長。
自然が持つ癒やしの力を”なんとなく”ではなく”エビデンスベース”で発信し、読者の方に「そんな良い効果があるのなら自然の中へ入ろう!」と思ってもらえる情報をお届けしたいと考えています。休日はスコップ片手に花を愛でるのが趣味ですが、最近は庭に出ても視界いっぱいに雑草が広がり、こんなはずじゃなかったとつぶやくのが毎年恒例となっています。