八日間、四台のジープで、カンボジアを横切った。

最終日、泥だらけのジープを停めて全員で降りたとき、なんだか、出発したときとは少し違う気分だった。すごい景色をたくさん見た、というのとも違う。うまく言えないけれど、自分の見ている世界が、ちょっとだけ大きくなった気がした。

シリーズ最終回は、その「気がした」の正体について書いてみたい。旅が、私たちの中に何を残したのか、という話だ。

行く前は、正直そこまで期待していなかった

白状すると、出発する前の自分は、この旅にそれほど多くを期待していなかった。

毎日はわりと充実している。仕事があって、スマホを開けば見たい情報が流れてくる。世界のことも、ニュースやSNSで、だいたいは知っているつもりでいた。

でも、それは「知っているつもり」でしかなかった。カンボジアの土の上に立った瞬間から、自分の「つもり」は、いっそ気持ちいいくらい、次々に裏切られていくことになる。

泥だらけになって、なぜか笑っていた

まず面食らったのは、仲間との距離の縮まり方だった。

八人、四台のジープ。道中はトラブルの連続だ。坂の途中でエンジンが止まれば、みんなで降りて押す。脱輪すれば、泥に足を取られながら、全員で「せーの」と車体を持ち上げる。誰かの車がはぐれれば、合流するまでそわそわする。

不思議なもので、大変なはずなのに、気づくとみんな笑っていた。うまくいかないことを、一緒になって面白がれる。日本での肩書きも立場も、泥の前ではどうでもよくなる。出発前はただの「同行者」だった八人が、ゴールするころには、同じ泥をかぶった仲間になっていた。

通り過ぎることしか、できなかった

忘れられない光景がある。

その日は、ジャングルの奥にぽつんと現れる、海外からの旅行者しか泊まらないようなグランピング施設を出て、次の目的地へ向かっていた。舗装もされていない一本道を走り出してまもなく、最初の子どもが目に入った。道ばたで、こちらに向かって土下座をするように身をかがめ、両手を差し出している。

一人ではなかった。百メートルほど進むと、また次の子がいる。さらに進むと、また。外から来る旅行者を待つように、同じ姿勢の子どもたちが、道沿いにずっと点々と続いていた。どの子も、六歳か、八歳か。日本なら、ランドセルを背負って学校に通っているような年頃だ。その光景は、一時間近く、途切れることがなかった。終わりが見えず、道が無限に続いているように感じた。

車を停めることは、できなかった。一人に応えても、次から次へと現れる。それに、いったん停まってしまえば、もう走り出せなくなるような気がして、足を止められなかった。理屈ではうまく説明できない。窓もドアもないジープの中から、私たちはただ、過ぎていく一人ひとりの姿を見ているしかなかった。

うまく言葉にできない。かわいそう、という上からの感情とは違う。豊かな国から来た自分を恥じる、という自己満足とも違う。けれど、これを「異文化」や「多様性」という言葉で片付けてしまうのも、何か違う気がした。本来なら学校にいるはずの年頃の子どもが、旅行者の通る道に立っている。そこには、ひとつの社会の、まだ解かれていない難しい現実が横たわっていた。

かといって、その場で小銭を渡すことが答えなのかも、わからなかった。手渡せば、一瞬は自分が救われた気になれる。けれど、それが結局、子どもたちをこの道に縛りつけることにつながってしまう、という話も聞く。豊かな国から来て、ただ通り過ぎていく旅人にできることは、驚くほど少ない。その無力感だけが、はっきりと胸の奥に残った。きれいに結論づけることを、この光景は、どうしても許してくれなかった。

「世界は、思っているより広い」

同行した仲間の一人が、ぽつりと言った。

「自分の知っている常識より、世界はずっと広いんだな」

まさに、その通りだった。それは、遠くの国へ行けば珍しいものが見られる、という意味ではない。人の暮らしの逞しさ。自然とすぐ隣り合わせの、ゆったりとした時間の流れ方。それらはどこか、私たちが便利さと引き換えに手放してしまった、もう一つの生き方の可能性のようにも見えた。窓のないジープで土埃にまみれながら通り抜けてきたのは、単なる距離の「広さ」ではなく、人の営みの「深さ」だったのかもしれない。

走り切った夜の、にぎやかな祭り

旅の終わりは、にぎやかだった。

八日間を走り切り、四台とも無事にゴールした。ちょうど、雨季の終わりと水の恵みを祝う、ボン・オム・トゥック(水祭り)の季節だった。カンボジアの人々が一年でもっとも心を躍らせる祭りの一つだ。夜の街へ繰り出すと、爆音の音楽と、あふれる人と、むせ返るような熱気が待っていた。

完走した安堵と高揚が、その熱気に溶けていく。少し前まで、ドアもないジープのことを半信半疑で眺めていた八人が、いまは同じテーブルで、同じ旅の話で笑い合っている。旅が変えたのは、世界の見え方だけではなかった。私たち自身の関係も、確かに変わっていた。

旅は、最高の学びの場になる

旅は、最高の学びの場だ。教科書でも、画面の向こうでもなく、五感のすべてと、戸惑いと、感動を伴って、世界の広さが体ごと入ってくる。

その学びは、一人の人生観だけにとどまらない。八人は、確かにチームになった。といっても、ただ困難を共にしたから、ではないと思う。トラブルは、一歩間違えれば、責任のなすり合いにもなりかねない。そうならなかったのは、肩書きも立場も通用しない場所で、互いの失敗や弱さをさらけ出し、補い合うしかなかったからだ。子どもにとっても、自分の「当たり前」が世界の当たり前ではないと、肌で知る機会になるだろう。

だから、人やチームが変わる体験は、ただ過酷な場所に放り込めば生まれる、というものではない。安心して弱さを見せ合える関係と、非日常を越えていくプロセス。そこをていねいに設計してこそ、はじめてつくり出せる。私たちは、そう考えている。

まずは、半歩だけ外へ

世界は、思っているより広い。それを知るのに、必ずしもカンボジアまで行く必要はない。

いつもと違う土地、違う文化、違う自然のなかに、少しだけ身を置いてみる。それだけでいい。一人でもいいし、家族とでも、仲間とでもいい。完璧な準備はいらない。必要なのは、半歩だけ外へ踏み出す勇気と、少しの好奇心だ。

その小さな一歩が、自分の中の世界の縮尺を、ほんの少しだけ描き変えてくれる。そしてたぶん、それこそが旅の、いちばんの贈りものなのだと思う。

世界の旅を、日本のフィールドへ

最後に、少しだけ私たちの話を。

今回のカンボジアの旅は、私たち Nature Service にとって、ただの休暇ではない。世界の各地で、人々がどんなふうに自然と向き合い、どんな旅のスタイルを育んでいるのか。それを自分たちの体で学び、日本の山や森や里へと翻訳して持ち帰る。私たちは、こうした活動を「World Travelers」と呼んでいる。

ドアのないジープで土地との壁を取り払う体験も、観光バスが通れない道の先で出会う暮らしも、無防備に困難を分け合うなかで生まれるチームも。世界で見てきた旅のかたちは、形を変えれば、日本のまだ知られていないフィールドでも、きっと生かせる。私たちは、そう信じている。

もしあなたが、自分の地域やフィールドで、自然と人をつなぐ新しい旅のかたちを探しているなら。世界の縮尺を少し広げてくれるような体験を、いつか一緒に、日本のローカルでつくっていけたらと思う。

(「Deep Cambodia」シリーズは、今回で完結です。最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。)