朝、起きるのがつらい。少し働きすぎて疲れているだけかな、と思っていたら、それが何日も続く。
週末は一日中家でダラダラ過ごして休んだはずなのに、疲れが取れない。

前は目標に向かって頑張れていたのに、最近はやりがいを感じられない。自分は誰の役にも立っていない気がする。
いっそ退職してしまおうか。でも、辞めたら本当に状況はよくなるのだろうか。

もしそんな感覚に心当たりがあるなら、それは「燃え尽き症候群(バーンアウト)」のサインかもしれません。
そしてそれは、あなたが怠けているからでも、仕事ができない人間だからでもありません。

この記事では、「労働」とは何かを哲学的な視点から見つめ直し、燃え尽きの正体を読み解きます。そのうえで、自分を取り戻すための、持続可能な働き方を一緒に考えていきます。

燃え尽きて何もできないのは「あなたのせい」ではない

体が動かない。仕事のメールを開くのが怖い。休んでも、ちっとも回復しない。
そんな状態が続くと、つい「自分はこんなに弱い人間だっただろうか」と、自分を責めてしまいます。

けれど、動けないのはあなたの根性や能力が足りないからではありません。
燃え尽きは今や、「気の持ちよう」では片づけられない現象として、国際的に位置づけられています。

世界保健機関(WHO)は、2022年に発効した国際疾病分類(ICD-11)の中で、燃え尽き症候群(バーンアウト)を「職業上の現象」として収載しました。
病気そのものとして認定したわけではありません。「適切に管理されなかった慢性的な職場のストレスの結果として概念化される症候群」とされ、あくまで仕事の文脈で起こるものと位置づけられています。
つまり燃え尽きとは、個人の気質や心の強さの問題ではなく、職場のストレスから生じる現象として、国際的に認められているのです。

ここで大切なのは、その定義が燃え尽きを「職場という環境」に結びつけている点です。
燃え尽きは、あなたの内側だけで起きたわけではありません。
これまでの働き方や、身を置いてきた環境との関係の中で、起きるべくして起きたのです。

もちろん、つらさが続くときは、専門家に助けを求めることが何よりも大切です。
そのうえで、自分一人を責めるのではなく、自分が身を置いている環境そのものに目を向けてみる。

この記事が手がかりにしたいのは、まさにその視点です。

※本記事は哲学的な視点から燃え尽きや働き方について考えるものであり、医療的・法律的な助言ではありません。心身に不調が続く場合は、医療機関やカウンセラーなど専門家への相談をおすすめします。退職にともなう傷病手当金や雇用保険の求職者給付など、利用できる制度については、お住まいの自治体やハローワークの窓口でご確認ください。

あなたがすり減らしたのは、「仕事」ではなく「労働」だった

なぜ私たちは、これほどまでに疲れ果ててしまうのでしょうか。
その答えを、20世紀を代表する哲学者が用意してくれています。

ハンナ・アーレントは、ドイツ生まれの政治哲学者です。
主著『人間の条件』(1958年)の中で、人間の営みを3つに分けて考えました。
「労働(Labor)」「仕事(Work)」「活動(Action)」の3つです。

この3つの違いを知ると、自分が何にすり減ったのかが、驚くほどはっきり見えてきます。

「労働」とは、消えてなくなる営みのこと

労働とは、生きるために終わりなく繰り返され、その場で消費されて消えていく営みのことです。

食事を作る。食べる。お腹が空く。また作る。
皿を洗う。また汚れる。また洗う。
どれだけ完璧にこなしても、明日にはゼロからやり直し。後には何も残りません。

アーレントは労働を、マルクスにならって「人間と自然との物質代謝」と表現しました。
呼吸や新陳代謝と同じで、生きている限り止められない循環です。

日々の業務に当てはめると、こうなります。
次から次へと届くメールへの返信。終わらないルーティン業務。
こなしてもこなしても、また明日には同じ量が積み上がっている、あの感覚。
それが、アーレントの言う「労働」です。

「仕事」とは、後に残るものを作る営みのこと

一方で「仕事」とは、この世界に長く残りつづけるものを生み出す営みのことです。

大工が家を建てる。作家が本を書く。エンジニアがアプリを完成させる。
自分がいなくなった後も、形として世の中に残り続けるものを作る行為。

アーレントは、仕事には明確な始まりと終わりがあると言います。
机が一つ完成すれば、そのプロジェクトは終わる。
労働のように、永遠に同じことを繰り返すわけではありません。

「活動」とは、人と人のあいだで起こる営みのこと

そして3つめの「活動」とは、人と人のあいだで言葉を交わし、新しい関係を始める営みのことです。

気の合う仲間と勉強会を立ち上げる。
職場の働き方を変えようと、同僚と声を上げる。
物を介さず、人と人が直接関わり合うこと。アーレントはここに、人間が最も人間らしくある瞬間を見ました。

現代は、すべてが「労働」に塗りつぶされている

さて、ここからがアーレントの鋭いところです。

彼女は、近代以降の社会では、本来は「仕事」や「活動」だったはずの営みまでもが、すべて「労働」に呑み込まれてしまったと診断しました。

そのうえでアーレントは、一つの未来を見通します。もし自動化(オートメーション)が進み、人間がその「労働」さえ機械に明け渡したとき、労働しか知らなくなった私たちには、いったい何が残るのか。

私たちが直面しているのは、労働のない労働者の社会、すなわち、彼らに残された唯一の活動を奪われた労働者の社会という見通しである。
(ハンナ・アーレント『人間の条件』1958年 より)

アーレントが思い描いていたのは、機械化が進んだ先の未来でした。けれど、その前提のほうは、すでに私たちの足元で出来上がっています。
かつては形を残す「仕事」だった営みも、仲間と何かを始める「活動」だった営みも、現代では「お金を稼ぐための手段」として一括りにされてしまう。

何かを後世に遺すためではなく、ただ組織の終わらない代謝を回すために。
私たちは、燃え尽きるまで走り続けさせられているのです。

労働そのものが悪いわけではありません。
食べること、眠ること、生きることを支える労働は、人間にとって欠かせない営みです。
問題は、人生のすべてが労働一色に塗りつぶされ、消えてなくなるものばかりを生み出し続けている、その状態にあります。

あなたがすり減らしたのは、おそらく「仕事」でも「活動」でもなかった。
終わりがなく、後に何も残らない「労働」に、人生のすべてを注ぎ込んでしまった。
燃え尽きとは、その当然の結果なのかもしれません。

なぜ私たちは「自分で」自分を追い込むのか

ただ、ここで一つの疑問が湧いてきます。
その「労働」は、誰かに強制されて続けていたものだったでしょうか。
多くの人は、こう感じるはずです。「いや、誰かに強いられたわけじゃない。むしろ自分から、頑張りたくて頑張っていた」と。

その感覚は、とても正しいものです。
そして、その感覚にこそ、現代の燃え尽きの核心があります。

この謎を解いてくれるのが、韓国出身でドイツで活躍する哲学者、ビョンチョル・ハンです。
彼は『疲労社会』(2010年)の中で、アーレントの議論を踏まえつつ、それだけでは今の私たちの苦しさは捉えきれないと、批判的にとらえ直しました。

「能力社会」では、自分が自分の監督になる

ハンは、現代を「能力社会(achievement society)」と呼びます。

能力社会とは、「〜してはならない」という禁止ではなく、「あなたは何でもできる」という肯定によって人を駆り立てる社会のことです。

少し前の時代、人を縛っていたのは命令や規則でした。
工場の規律、厳しい上司、決められたルール。「〜するな」という禁止の言葉が、人を管理していました。

ところが現代は違います。
「やればできる」「もっと成長できる」「可能性は無限だ」。
こうした前向きな言葉が、いつのまにか私たちを24時間フル回転させています。

誰に監視されるでもなく、自分でToDoリストを眺めては焦る。
上司に命じられたわけでもないのに、「もっといいものが作れるはず」と夜遅くまでパソコンに向かう。
休日の趣味さえ、「キャリアに役立つ自己投資」に変えてしまう。

心当たりは、ありませんか。

加害者と被害者が、同じ一人の人間になる

ハンは、この状態を「自己搾取」と呼びました。

自己搾取とは、自分の中に最も厳しい監督を住まわせ、自分の意志で自分を限界までこき使うことです。

搾取する者は同時に搾取される者である。加害者と被害者を区別することはもはやできない。
(ビョンチョル・ハン『疲労社会』2010年 より)

かつての労働者は、外部の誰かに搾取される「奴隷」でした。
だから、恨む相手がいた。

けれど能力社会の私たちは、自分で自分を搾取しています。
搾取しているのも自分、されているのも自分。
恨む相手は、どこにもいません。

なぜ、わざわざ自分で自分を追い込むのか。
ハンは、そこに「自由」という感覚が伴うからだと言います。
「やらされている」のではなく「自分で選んでやっている」と感じられる。
だからこそ、他人に強制されるよりもずっと効率よく、私たちは自分を働かせてしまうのです。

ハンは、現代のうつや燃え尽きを、個人の心の弱さではなく、社会の構造が生み出す病だと位置づけました。
あなたが燃え尽きたのは、努力や自己管理が足りなかったからではありません。
むしろ「自分の可能性を最大化せよ」という内なる声に、誠実に応えようとしすぎただけなのです。

「辞めれば解決する」のか、哲学から考える

ここで、多くの人が抱える一番の問いに、正面から向き合いましょう。
「いっそ辞めてしまえば、この苦しさは終わるのか」。

哲学は、この問いに、二人の哲学者から二つの角度で答えをくれます。

まず、ビョンチョル・ハンの視点から。
もし、あなたを追い込んでいたのが外の環境ではなく、「もっとできるはず」という内なる監督だったとしたら。その監督は、退職届と一緒に置いていけるでしょうか。
おそらく、置いていけません。職場を変えても、転職先で、あるいは独立して始めた仕事で、同じ声がまた囁き始める。自己搾取の厄介さは、逃げ場が自分の内側にあることです。だから「辞めさえすれば解決する」とは、ハンの議論からは言い切れません。

一方、ハンナ・アーレントの視点は、まったく違う側面を照らします。
もしあなたの職場が、「仕事」も「活動」も許さず、ただ終わりのない「労働」だけを回し続ける場所だったなら。その環境にとどまる限り、人生が労働で埋め尽くされていくのは避けられません。この場合、環境そのものが問題の一部であり、距離を取ること、つまり転職や退職には、確かな意味があります。

二人は、一見、逆のことを言っているようです。
けれど、二つの視点を重ねると、本当に問うべきことが浮かび上がってきます。
それは「辞めるか、辞めないか」ではありません。
「労働一色のリズムから、自分は降りられるのか」「その下に埋もれた仕事と活動を、取り戻せるのか」。これです。

辞めることでそれが叶うなら、辞めればいい。
辞めなくても叶うのなら、無理に辞める必要はない。
退職は目的ではなく、あくまで手段の一つにすぎないのです。

では、「労働一色のリズムから降りる」とは、具体的にどういうことなのでしょう。
そのヒントは、意外な場所にあります。自然です。

思い出してください。アーレントは労働を「人間と自然との物質代謝」と呼んでいました[^1]。
では問います。「24時間365日、休まず動き続けるもの」は、自然界に存在するでしょうか。

ほとんど見当たりません。
木は春に芽吹き、夏に葉を茂らせ、秋に実を結び、冬には葉を落とします。冬の木は枯れているのではなく、地中で根を張り、エネルギーを蓄えながら次の春に備えています。
熊は冬眠し、多くの田畑も冬は休みます。川の水量も、雨季と乾季で大きく変わります。

自然界の営みは、活動する時期と休む時期を、必ずセットで繰り返します。
ここから先は、論理というより一つの見立てです。労働が「自然との代謝」であるなら、その代謝もまた、活動と休息がセットになった自然のリズムを、どこかに宿しているのではないか。だとすれば本来の労働にも、「休む時期」が織り込まれていたはずだ、と。

ところが、私たちが作った社会には、その「休む時期」がほとんどありません。
常に成長と成果を求め、立ち止まることを後退とみなす。いわば「終わらない夏」を前提に動いています。 かつての暮らしには、実りの季節のあとに、田畑も人も休む冬がありました。動いた分だけ、必ず休む。それが当たり前だったのです。「年中無休で成長し続ける」働き方は、人類が比較的最近つくり出したものであって、自然界の標準ではありません。 燃え尽きとは、その「終わらない夏」に対して、心と体が限界を知らせるサインなのかもしれません。

[^1]: ただしアーレント自身は、この終わりのない循環を、人間が世界を築くことで乗り越えるべき「必然性」として論じました。自然に倣えと説いたわけではありません。ここから先は、彼女の労働観を出発点にした、筆者なりの読み替えです。

「仕事と活動」を取り戻し、自然のリズムで休む

ここからは、前向きな話をしましょう。
燃え尽きから抜け出すヒントは、二つあります。
一つは、アーレントが教えてくれる、労働に埋もれた「仕事」と「活動」を取り戻すこと。
もう一つは、自然が教えてくれる、休息を組み込んだリズムを取り戻すことです。

難しく考える必要はありません。働き方や休日の過ごし方を少し変えてみると、何かが変わるかもしれない。そんな軽い手がかりとして、肩の力を抜いて読んでみてください。
ただし、心や体が本当につらいときは、無理に自分で抱え込まず、医療機関やカウンセラーなど専門家に相談することを何よりも優先してください。

「労働」に埋もれた「仕事」と「活動」を取り戻す

まずは、アーレントが分けた「労働」「仕事」「活動」の3つを、もう一度思い出してみましょう。
人生が「労働」一色に塗りつぶされていたのなら、その下に埋もれた「仕事」と「活動」を、少しずつ掘り起こしてみるのです。

最初は「仕事」、つまり後に残るものを作る営みです。
大げさなものでなくてかまいません。週末に小さな本棚を一つ作る。森や里山を守る活動に、少しだけ参加してみる。下手でもいいから、器を一つ焼いてみる。短い文章を書いて、誰かに読んでもらう。
消えては積み上がるだけだった一日に、形あるものが一つ残る。それだけで、手応えの質が変わります。「今日も何も残らなかった」という感覚こそ、労働が私たちから奪っていたものだからです。

そしてアーレントが最も大切にしたのが、3つめの「活動」でした。
活動とは、人と人のあいだで言葉を交わし、新しい何かを始める営みのことです。
週末の森に、一人ではなく誰かと出かけてみる。同じ悩みを持つ人と、小さな集まりを始めてみる。職場の働き方を変えようと、信頼できる同僚にそっと声をかけてみる。
こうした場で、私たちは「何ができるか」という能力ではなく、「自分が何者か」という存在そのものを、他者に開いていきます。人が肩を並べて何かを始めるとき、そこには静かな力が立ちのぼる。アーレントは、この瞬間にこそ人間のかけがえのなさが宿ると考えました。それは、能力社会が私たちを「成果を出す機能」へと切り詰めていくのとは、ちょうど正反対の営みです。

ここで一つ、誤解しやすい点に触れておきます。
退職して趣味に没頭することや、一人きりで静かに過ごすことは、大切な休息です。ですが、それはアーレントの言う「活動」とは少し違います。活動とは、他者がいる場所に出て、言葉と行いで人と関わることだからです。「何を作るか」だけでなく「誰とそれを始めるか」。その両方が、労働に奪われた時間を取り戻す鍵になります。

とはいえ、焦る必要はありません。
冬は、種を蒔く季節ではなく、土の中でエネルギーを蓄える季節です。
何かを作り、誰かと始めるのは、心の体力が戻ってきてからで十分です。
今はまず、休むこと。それが最初の一歩になります。

自然のリズムで、ただ休む

では、その「まず休む」を、どう実践すればいいのでしょう。
ヒントは、やはり自然のリズムにあります。自然の営みに休む季節が組み込まれているように、私たちの暮らしにも本来、回復の時間が必要です。

ビョンチョル・ハンは、絶え間ない多動への処方箋として、ただ立ち止まって世界を見つめる「何もしないこと(無為)」の力を説きました。
それは「次にもっと働くための充電」ではありません。
能力社会では、休むことすら「生産性を上げるための準備」にされてしまいます。生きることそのものが、いつまでも健康に働き続けるための手段へと切り詰められていく。ハンが批判したのは、まさにこの発想でした。
彼の議論を今に引きつければ、マインドフルネスや瞑想までもが「競争に勝ち抜くためのライフハック」に変えられていく光景も、その延長線上にあると言えるでしょう。

だから、立ち止まる時間は、何かのためであってはいけません。
ただ立ち止まる。ただ休む。冬の木が、ただ春を待つように。

その「何もしない時間」を作る場所として、自然はとても向いています。
成果も目的もなく、ただ森の中を歩く。焚き火の前に座っていたら、いつのまにか数時間が経っていた。
そういう「無目的な時間」は、すり減った心が静かに回復するきっかけになってくれるかもしれません。

平日にまとまった休みが取れなくても、週末に少しだけ近くの森や公園に出かけてみる。
それだけで、終わらない「労働」のリズムから、一度降りる時間が生まれます。

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立ち止まることは、後退ではない

ここまで、アーレントとハンの哲学を手がかりに、燃え尽きの正体をたどってきました。
最後に、もう一度だけ整理させてください。

  • あなたが燃え尽きたのは、後に残る「仕事」や人とつながる「活動」を奪われ、消えていく「労働」だけに人生を注ぎ込んでいたからだった(アーレント)
  • あなたをそこまで追い込んだのは他人ではなく、「もっとできるはず」という声に応えようとした自分自身だった(ハン)
  • 休まず走り続けることは、休む季節を必ず持つ自然界には存在しない、無理のある状態だった

退職するのも、しないのも、あなたの自由です。
大切なのは、労働一色だった毎日に、休む時間や、何かを残す時間、人とつながる時間を、少しずつ取り戻していくことなのかもしれません。
そうして毎日の時間の使い方が少しずつ変わっていくと、立ち止まっている今も、ただ耐えるだけの時間ではなく、次の一歩を準備する時間に変わっていきます。

立ち止まることは、後退ではありません。
それは、あなたの働き方や暮らし方を、もう一度自分の手に取り戻すための時間です。

出典情報

  • ハンナ・アーレント『人間の条件』(1958年)
  • ビョンチョル・ハン『疲労社会(The Burnout Society)』(2010年、英訳版2015年)

※本記事中のアーレントおよびハンの引用は、いずれも英語版を底本として筆者が独自に翻訳したものです。既訳の日本語訳とは表現が異なる場合があります。